キモノにはさまざまな決まりごとがあり、面倒でとっつきにくいというイメージがあります。それでも昔は庶民が日常的に着ていたのですから、「そんなに形式張ったものではなかったのでは?」と思い、日本の民族衣装の歴史を調べてみました。そこで今回はそのお話をしたいと思います。
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現存する埴輪や神像などの資料によると、唐の影響を強く受けた奈良時代までは、日本人の貴族の服装はツーピース(上下二部式)だったようです。男性は上着と裾幅の広いゆったりとしたズボンをはき、膝下を紐で結んでいました。女性は上着と「裳(も)」と呼ばれる足全体がスッポリ隠れるほどのロングスカートでした。当時の庶民の服装は定かではありませんが、後世の和装の形を考えると、おそらくツーピースは贅沢品であり、ワンピース(一部式)だったのではないかと思われます。
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9世紀に遣唐使が廃止されてからは、服装は一気に和風化します。平安時代には「襲ね(かさね)」の風習が生まれました。無地の単色の衣服を何枚もかさねる十二単は、色の組み合わせを変えることによって色彩のハーモニーを楽しみ、また四季の移り変わりごとに色の組み合わせを変えて楽しんでいたようです。それは単なるお洒落だけではなく、冬は寒く、夏は暑い京都の気候を考えると、理にもかなっていました。当時の屋敷は吹きさらしで暖房も無かったのですから、着るもので温度調節することは実用的だったのです。
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この時代はとくに女性の服装が大幅に簡略化されます。武士の台頭や町なかで働く男女が増えたことに関係があるのか、はたまた中間階級が出現したためなのか興味をひくところですが、現在のキモノの形、いわゆる小袖姿が資料に登場してきます。白い小袖は、古くは下着として着用されていましたが、服装の簡略化や藍などの草木染の普及による文様の発達が、小袖の外着化を後押ししたようです。また、南北朝の戦乱や応仁の乱で京都は戦場となったため、華やいだ平安朝貴族の服装はほとんど焼失してしまいました。
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長い戦乱の時代が終わって平和になると、やはり人々の心はお洒落に向かいます。この頃になると、服装は動きやすい小袖が定着しています。この時代、隣国の明国、ポルトガル、スペイン、オランダなどから金糸で模様が織られた金襴(きんらん)、銀糸で織られた銀襴(ぎんらん)、表裏に紋様がでるように織られた緞子(どんす)、繻子(しゅす)、またビロードや毛織物の一種であるラシャなどが伝来し、新しいデザインの織物や染色が広まっていったのです。
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江戸初期から元禄にかけては金箔、銀箔、絞り、刺繍などの技術が進み、さまざまな模様も考案されています。長い戦乱の世に終止符を打ち、平和な時代を謳歌している人々の喜びが伝わってきますね。元禄時代には友禅染めが考案され、多彩で華麗な絵模様が表現できるようになります。この時代あたりで、現在のキモノの要素が一通り出揃ったといえるでしょう。 しかし、封建制社会の下では、身分によって着用できる衣服の材質や色、模様などが決められるようになります。服装を通じて公家、武家、農工商一般庶民などの階級を区分するために、装飾品、化粧法、髪型に至るまで規定があったそうです。
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| 西洋文明を取り入れ近代国家の仲間入りを目指した明治政府の下で、服装も一気に洋装化が進みます。女性が家から出て職業に就くようになると、キモノよりも動きやすい洋服が徐々に好まれるようになります。一方、女学校でも制服が定まりますが、なかなか完全な洋装にはならず、振袖に袴、足元には革靴といった和洋折衷のハイカラさんスタイルが誕生することになるのです。 いかがでしたか?次から歴史ドラマなどを見るときは、これらの服装の時代背景を思い出しながら、見るのもなかなか楽しいものですよ。さあ、10月になれば衣替え。キモノも単(ひとえ)から袷(あわせ)に替えてくださいね。 |
No.38 ● 2006年9月 ファッション事情・日本の民族衣装(2)その歴史 |