| No.5 ● 2003年12月 そして、大正〜昭和初期 |
|
||
|
文明開化の明治に花開いた、日本の化粧品製造業は、大正から昭和初期にかけても順調に成長しています。大正初期には、研究開発体制が整備されました。 業界のリーダーたちが、化粧品の肌に対する影響をよく理解し、西欧の学問研究を導入し、本格的な研究所や、新しい施設をもった工場などが、建設されていったのです。また、このような研究の成果か、各種のクリーム類も大正初期に主要メーカーから発売されています。洗顔(石鹸)、水分補給(化粧水)、油分補給(クリーム)という、現在の基本3ステップが勢ぞろいしたわけです。 大正デモクラシーの影響や、帝劇の開設、歌舞伎座の新築、宝塚歌劇団の発足などの華やかな時代背景をうけて、7色の色つき練り白粉(今でいう、パウダーファンデーションの先祖でしょうか?)も発売され、女性たちの洋装がすすむにつれて、メイクアップも西欧化していったようです。大正13年には、アイ・メークアップをした女性が登場したようで、水口順一氏の「化粧品ブランド史」に、このような雑誌記事が引用されています。 「銀座に目のふちを碧く隈取った女が出る。前代未聞という」 まさにモダンガールですね。 昭和初期は、女性の社会進出もすすみ、服装も活動的な洋服が一般化していったことから、化粧品も普及していきます。コティーなどの外国化粧品も紹介され、第2次世界大戦前の女性たちを描いた小説などには、外国旅行のおみやげとして、コティーの粉白粉が登場しています。 ただ、明治以来の日本の化粧品業界の努力もあり、また、昭和初期の化粧品業界のチェーン店化を通しての、お客様へのサービス体制、また、華やかな広告宣伝などを通して、日本の化粧品会社も成長を続けていきました。現在も続く、化粧品業界のマーケティング戦略、流通チャネル戦略が確立されたのも、この頃です。 しかし、第2次世界大戦がはじまり、敗戦、戦後復興と、化粧品どころではない時代となったのは、皆さんご承知のとおりです。でも、そんななかでも、私たちの祖母や母たちは、肌のお手入れに気をつかっていたと聞いています。 |
|||
